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ケルト的自由とフィレンツェ的自由(後編) [本]

今回は、《フィレンツェ的自由》について。

ボローニャ紀行 (文春文庫)

ボローニャ紀行 (文春文庫)

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2010/03
  • メディア: 文庫

 井上ひさし著『ボローニャ紀行』を読まれましたでしょうか。

「アメリカの有名な都市学者ジェーン・ジェイコブズ女史が非常に独創的な都市論を展開した。
最初にヨーロッパ中規模都市である、ボローニアや、ベネチアを、「創造都市」として、着目した人である。彼女は、それらの都市における、職人企業という中小企業のネットワーク型の集積が、「柔軟性、効率性、適応性」に富んでおり、それらの企業こそ柔軟な変化に対応する、「適応型経済」であると特徴づけた。
それは、ボローニアの市民たちのほこりでもある、古き良き物をまもり、悪いところを工夫して良いものを「創造」的に適応して行く伝統である。
それは文化、職業技術、政治にまで敷衍し、「ボローニア方式」と呼ばれる世界の経済再生都市モデルとなっている。これが創造都市という言葉の源流である。」

 このことを、井上ひさし氏は、日常の生活のなかで、分りやすく書いてました。「・・・古代ローマの共和制への憧れ・・・<市民的な徳がなければ共同体は続かない>という意味での共和制の精神を重んじています」という話を紹介していました。
 その歴史的背景に、ルネッサンスを発祥の地、中世の「都市共和国」(コムーネ)があっことに注目するよう指摘していました。イタリアのフィレンツェなど自由都市で、神聖ローマ帝権から自由な自治都市(コムーネ)を1115年宣言しています。フィレンツェ的コムーネの「自由」とは、独立と共和でした。それは、封建領主、聖職者、下請け労働者とは区別される、「主人持ちでない自主独立の、いわば起業家」市民による政府を理想としていた。現在の市民とは異なり、中世ヨーロッパ都市における富裕な商工業者としての都市住民、城壁(ブール)に囲まれた都市に住む住民に由来しているブルジョワのことです。のち、住民自治の「コムーネ」の思想が、フランス革命時代になると「コミューン」となります。
 この《フィレンツェ的自由》は、積極的自由を享受する、市民的生活において実践される活動によって定義されるもののようです。《ケルト的自由》に比べて、この《フィレンツェ的自由》は、よく検討もされているし、記述も多いようです。(CiNiiで、根占献一『メディチ体制とアラマンノ・リヌッチーニの批判-彼の『自由を巡る対話』の意義-』イタリア学会なども読めます。そこにキケロの書簡紹介がありましたが、有意義なものもありました。)

イタリア都市の諸相―都市は歴史を語る (世界史の鏡 都市)

イタリア都市の諸相―都市は歴史を語る (世界史の鏡 都市)

  • 作者: 野口 昌夫
  • 出版社/メーカー: 刀水書房
  • 発売日: 2008/01
  • メディア: 単行本

 ですが、なぜ中部フィレンツェにおいて、都市国家が生まれたかのでしょうか。当時は、十字軍の遠征があり、その結果として、東方貿易も活発になり、市民の活動が盛んであったという条件などが挙げられています。しかし、同じような条件があったとしても、北部のミラノや南部のナポリでは、君主制を良しとしているのです。その違いは、何からくるのでしょうか。
フィレンツェ―世界の都市と物語 (文春文庫)  若桑みどり著『フィレンツェ-世界の都市物語 』(文春文庫)で、「イタリア、それもまさにフィレンツェに古代復興(ルネッサンス)が起こったことは、偶然ではない。この町では古代は一度も死んではいなかった。」

 都市フィレンツェが、紀元前50年頃に古代ローマの殖民都市フロレンティアとして建設された、ことは知られています。しかし、その歴史的な後背地としての中部イタリアとは、紀元前1世紀頃まではエトルリアの地でした。エトルリアは、統一国家は持たなかったが、12都市連盟と呼ばれるゆるやかな連合を形成してました。古代王政ローマ時代の後期には、エトルリア系出身の王もいたといいます。その後、古代の共和制ローマに次第に同化していったようです。


「イタリアの長い歴史のなかで、エトルリアの都市があった地方には、しばしばエトルリア・ルネッサンスという思想的な運動が見られる。それは、ローマの中央集権的な支配権に対して、それよりも古い自分の地方文化的血統を思い起こすことに意味があった・・・」(『フィレンツェ-世界の都市物語』)


 そうした文化的な背景が、歴史の中で同化しながらも、グラムシの順応という概念に近いのかもしれませんが、分裂するローマ帝国の中心内部で、灰の中から《フィレンツェ的自由》として蘇り、コムーネ「都市共和国」が生まれたのではないでしょうか。
 エトルリアがあった時代に、中部ヨーロッパに居住していたケルト人は、ローマに対立し駆逐され、ヨーロッパ文明の辺境部に追われながら《ケルト的自由》として烽火(のろし)をあげたときが、奇しくも13世紀の、辺境地で対抗する《ケルト的自由》と帝国内部で内破するの《フィレンツェ的自由》であったことを記憶していいでしょう。それは、バーリンが区分した消極的自由と積極的自由とも、少し違った歴史的自由のありかたではないでしょうか。
 そして、それが何に挑む、どんな「自由」であったのか、を再び考えたいものです。
 


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