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菅啓次郎『コヨーテ読書-翻訳・放浪・批評』 [本]

 どうしてこんな風変わりなタイトルにしたんだろう?

コヨーテ読書―翻訳・放浪・批評

コヨーテ読書―翻訳・放浪・批評

  • 作者: 管 啓次郎
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2003/03
  • メディア: 単行本


「コヨーテ、草原の狼(ステッペンウルフ)、それは犬でも狼でもない。・・・都市と野生の区域の境界に出没し、絶えず移動している。」「ナホバの人々にとってはコヨーテは不吉な動物、家を出て最初にそいつに会ってしまったなら、いったん帰って出直さなくてはならない。」学名はカニス・ラトランス、「歌う犬」のことだ、といいます。
 「翻訳という「渡し」の仕事を日々の中心にすえ、言語的な都市/荒野の境界線上でのみ起こる文学という事件のことを主に考えながら。言葉のコヨーテ」「二つの文化、二つの言語、二つの社会のあいだで生きること。社会と社会のあいだを、鳥のように獣のように、わたること。現代世界ではいっそう多く見られるようになった、そんな「わたり」の生き方に、ぼくは興味がある。」アメリカに暮らし「擬似アメリカ人というのは、国籍の問題ではない。それははっきり階級の問題、特権の問題だ。」と言い切ってます。闇の列車、光の旅 [DVD] 正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官 [DVD]
  メキシコ人コヨーテにみちびかれ、非合法に密入国するメキシコ人。「移民という生き方をはじめようとして出発点にすらたどりつけなかった、その顔を知らない、姿を見せない死体たち・・・。」こうした境界線のはなしは、映画『闇の列車、光の旅』(2009)や『正義のゆくえ』(2009)でも取り上げられてました。「別の言語が使われる別の国にゆきそこで別の暮らしをはじめようとする人々――政治亡命者であれ、経済移民であれ、二十世紀の世界には驚くほど多くのこうした移民者がいたし、いまもいる。」

 異質な世界との衝突の意味、「世界」そのももの複数性をよく考え、それを自分にとって不自由を強いられる言葉で手探りで綴ったのが、かれらの文学だ。これを「エグジログラフィ exilography」(エグザイルつまり亡命者/流浪の記述)と呼ぶことにしよう。

「ここはわれわれの土地ではない」「この言語はわれわれの言語ではない」という意識を、かれらは「ここもまたわれわれの土地」「これもまたわれわれの言語」という意識に、そっくり転換してゆくのだ。

 エボニックス、それは黒人英語のこと。・・・その言語を「崩れた」「だらしない」「まともな場には出せない」ものとして貶める含みを、避けられるようになっている。

 言語の話法そのものの中に、習得上“うまくしゃべれない”ことを「知的幼児性」や階級・身分・育ち・・・など社会性の背景を烙印するモノフォニー(単声)があると思います。そして、アメリカの南部白人方言としてのサザン・ドロールといった方言の言葉の存在も指摘されています。

 1952年サンタ・フェ生まれのジミー・サンティアゴ・バカという詩人がいる。アパッチとチカーノのメスティーソの家系の子。幼くして両親のいずれからも捨てられ、親戚・孤児院を転々として育ち、浮浪者になり、犯罪者となって刑務所に入った。そこで、二十歳になってから英語とスペイン語の読み書きを独習し、ニュー・メキシコ大学に入学し、詩作をしたという。彼が、人々に与える教訓とは。

 Don't depend on America to tell you who you are.
(きみが誰であるかをアメリカに教えてもらおうなどと思うな)

 また、「コリアン・アドプティー」と呼ばれる養子になった韓国系アメリカ人、コーヒー屋のシンデイを通して、

 過去と、本質と、訣別するという姿勢は、ほとんどいつでも、他人にまで解放感を波及させる。それに対して、幻の本質を探し過去へのノスタルジアに浸る姿勢は、ときとして共感の涙を呼ぼうとも、結局は他人をしめだし、自分の上ばかりに、何度も折り重ねられてゆくのではないだろうか。・・・それはあるいは人生を、戦いという相のもとに見るか、それとも悔恨という相のもとに見るか、の違いなのだろうか?

 そして、ブルガリアから、成人してからフランスに移住して批評家となったツベタン・トドロフの経験を通して、

 ここからわれわれはどんな教訓をうけとるべきだろうか、人間のあらゆる文化的(習得された)事象と同じく、言語においても本質的所属はない、というのがぼくの立場だ。人は「血」に、「言語」に、「土地」に、本質的に所属しない。すべては経験論と実用論から語られるべきだ。にもかかわらず、現実の生活において、われわれはあたかも自分が何か本質的に所属しているかのようにふるまう。いや、現実に、・・・ある言語において自分が経験してきたすべての記憶、ある言語において自分が知覚する自分の姿が、代替しようのない「真実」として、明確な輪郭を持って迫ってくることは、否定できない。
 だが――結論をいおう――それはそれだけのことなのだ。・・・
 自由は言語から言語への「渡り」にある。そして「渡し」がめざす先は、つねに未知の、不自由が約束された、しかし逆説的にもそれゆえに解放的な、「外国語」の空間だ。

 言葉との関係で、本質主義を明確に否定されています。 
 それはまた、『移動祝祭日』でヘミングウェイに書きとめられた、ジョイス一家の高級レストランでイタリア語の会話をしながらの食事風景を記して、

 人はどこにゆこうが、誰を相手にしようが、自分のしゃべりたい言葉でしゃべればいい。国籍や家系や良識がどんな言葉を指定しようが、ぜんぜん気にすることはない。

 偶然なのか、2003年にそれぞれ《翻訳と翻訳家》について考えるエッセイを通して、菅氏も、多和田氏と同じ感覚を、《翻訳家》として共有されているのだ、と思える言葉です。

 エピグラムというものがある。古代の金石に刻まれた碑文の意味から転じて、本の巻頭を飾る句のことを呼ぶ。書物の生産とは歴史のはじめからつねに引用の連続だった・・・
 なぜなら、人は自分の力だけで本を書くことはできないのだから。文章とは、九割九分まで引用からなりたっている。またそれでなければ、まるでおもしろくない。「自力で書かれた」文章というのは、これは100パーセント、単なる怠惰か傲慢のしるし、塩を欠いた料理か変色した新聞紙だ。・・・文章にかぎらずあらゆる技芸の道において「成熟」という段階は一つのいわば地理的区分をなし、その地点までいってはじめて「個性」への可能性が、ごくわずか見えてくる。

 人生は言語の描きだす文様であり、だからこそ詩がある本質的な力を持つ。

 読み散らかす、という言い方がある。・・・この言葉も、その行為も、好きだ。いろいろな本を雑然と積み重ねて、あっちを読んだり、こっちを眺めたり、ひとまず開いたまま床に置いたり、別のを棚から引き出したり。明確なターゲットに収斂することもなく、立派なアウトプットにむすびつくわけでもない。断片、につぐ断片、につぐ断片、の乱舞。ページは摘みとられた木の葉のように、風が吹けば飛び去り、あとにはぼんやりとした明るさだけが残ればいい

 なぜか、私もホッとする文章です。


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青がえる

xml_xsl様。

nice ありがとうございます。
by 青がえる (2011-09-20 22:48) 

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