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鷲田精一『「待つ」ということ』 [本]

待たなくてよい社会になった。
待つことができない社会になった。

「待つ」といことを巡り、19の文学や哲学にたずねる話(連載原稿)を積み重ねています。

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

  • 作者: 鷲田 清一
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2006/09
  • メディア: 単行本

アラン
石原吉郎『消去して行く時間』という随想から、流れるような加算の時間と、未来の一点に向かってカウント・ダウンする時間という、例の二通りの時間の紹介。
河瀬直美『沙羅双樹』のセリフ、「忘れていいこと、忘れたらあかんこと、ほいから忘れなあかんこと」
V.E.フランクル『夜と霧』での収容所生活
ローリング・ストーンズのミック・ジャガーがステージで演出する観客の「待ち」の効果
柴田錬三郎『宮本武蔵』
太宰治『走れメロス』
吉本隆明『幸福論』

 鷲田氏が、「待つ」が成立する地点として、目的(得るべき結果)までの約束されたものとしての「待つ」ではなく、その断念の先で、真に「待つ」が始まるものしての、果てにある「待つ」という事態を説明しようとします。

 ウィトゲンシュタインを参照して、待ったその先で、「こういうことだったのか・・・」と思い知ること。
 また、ポール・リクールが、何かをほんとうに「理解する」というのは、同化(わがものとする所有)ではなく、「貪欲で自己愛的な自我の、放棄」、つまり所有権の剥奪をともなうと書いています。臨床心理学で用いられる「コーピング」という概念を説明し、虚構的ではあるがじぶん自身にはぎりぎりつじつまの合ったある対抗戦略を編みだしていくいとなみの意味する、という。自閉症や認知症の小澤勲氏の意味解釈の例をとりあげています。
「自己同一性を保持しようとする行動が、逆に自己同一性を危うくしてしまっているという悪循環の輪(ループ)」から、ひとはどうやって抜け出せるかというということでしょう。「不断の自己同一と不断の自己分裂とが同時に生起している」(P187)
 アイデンティティが自身の自己否定としてアイデンフィケーションを生み出し、アイデンフィケーションが自己運動の存続をかけてアイデンティティを揺さぶり疑い続ける。<原因が結果を作るが、同時に結果が原因を産む>という関係を指しているといえます。私は因果律には相補性や同機性(時間の経過と論理の経過は逆向き)があると認識しており、主従関係は認めがたい。それは「メビウスの呪縛」と名づけてもいいと思います。
 デリダがレヴィナスを承けることばとして「呼びかけは応答から出発して初めて呼びかけとなる。応答は呼びかけに先んじ、呼びかけに先回りして[呼びかけを迎えに]到来する」といことを述べたといいます。
 外来の「待つ」ことは、内部でアイデンティティの継承性を問題にしている。だから、因果律のねじれや時間の横断をアイデンティティに持ち込めば、「待つ」ことは「訪問」に変化してしまうのではないでしようか。


E.M.フォスター「年をとると記憶は一枚の画に近づく」

これを、記憶の遠近法(時の順序)が崩れてしまい、同じ平面で時を跳び越えたり、溶け込んだりする、という絵画的な説明は、大変に興味深いものでした。

陶工の待つ、「窯変」(ようへん)に、こねた土に釉薬(ゆうやく)を塗るが、窯にそれをいれたあとは、焼き上がるまで待つ。どんな色がにじみ出てくるか、ときにどんな歪みがその形に現れるか、それは作家の意図の外にある。
・・・おのれの作為を壊すために同じ単純な動作を反復しているかのようである。

礼拝という儀礼に、魂の激しい衝動、情熱、感動を押し殺す、知恵と訓練を見ています。
クリスチャン・オステールの小説『待ち合わせ』
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』
アルベール・カミュ『シジフォスの神話』の果てしない同一の行為の反復。
終焉と理由を欠いているので、苦痛と倦怠をしかもたらさない。・・・では、終焉と理由を必要としないような<待つ>がありうるのか?という設問がなされる。

 時間はつねにどこかへ至りつくその途上でしかなかった。それは「目的」を果たすためのプロセスでしかなく、したがって時間はその未来に向けて駆るものでしかなかった。それ以外の時間は、ただつぶすためにあるのでしかなかった。そうした暇つぶしとしてなされる行動はすべて、脈絡のないものであり、退屈なものだった。そうした行動の意味の源泉はことごとく「未来」にしかないのだから、「未来」と関係付けることなくして意味も脈絡も見えないものであった。

 待つことを放棄することがそれでも待つことにつながるのは、そこに未知の事態へのなんらかの開けがあるからである。・・・何が到来するかわからないままに、・・・それでも何かの到来を迎え入れる用意があること、このことを西洋人にならって、<ホスピタリティ>(歓待)と名づけることもあるいは可能かもしれない。不意の客を迎え入れること、それは客という他者を<わたし(たち)>のうちに併合することではない。それは、他者を自己へと同化することではなく、逆に他者の前に自己を差し出すことであり、・・・<わたし>独りが関係の意味を決めるのではない、そういう他者との関係なかにみずからを据えること、つまりみずからあえて傷つきやすい存在とすることである。
 ・・・他者を迎え入れるというのは、同時に、自分の理解を超えたものによって迎え入れられるということでもあるのだ。そしてそれはじぶん自身がじぶんにとって他者のごとく疎遠なものに転化するということでもある。「歓待」はそのような自己の崩れのなかにしか訪れない。じぶんの枠にこだわりつづけ、それがいつか壊れるのではないかと不安におもっているひとが、逆にそうした枠そのもの壊すことでやがて当の不安から解き放たれる、・・・


 時間の観念が、叙事詩、物語りの起承転結のなかで、どこを通過しているかを意味しているかだとすれば、時間は、(内容がどうであれ)終末(終幕)のカタストロフィーを持つという<形式の意味>で、つねに悲劇になります。たとえば、人の死には、無に帰すほど小さくても、どんなに偉大であっても(壮大な偉大さを持つほどに)喜劇にはならないように。すべての場所で、時間がその意味の回収をおこなって反省と危機感をせまり、さいわいにも終わりのある有限性があることを、人を救っていると考えるか、拘束の嵌めこみと考えるか。
 時間という観念をすべて放棄して、目的も内容(起因の来歴)もないものを、人は「待つ」ということがあるのか、理由や根拠のない無内容なものを「待つ」ということができるのだろうか。
 介護やケアというよう臨床的な「待ち」には、「待つ」を立ち会う、「待つ」営為そのもの、が行動の倫理として厳然と存在している。意味や理由を問うことはないし、問うてはいけないのでしょう。

 これまで(歴史)の終焉とあらたな開闢の到来という境界線上で、時間を持たない瞬間と、次の瞬間と、そのまた次の瞬間・・・。意図や作為が成立しないところ(結果として時間の消失点)で、受け入れるべき好転や喜劇転化のチャンスをもつ、ということでしょう。

 となれば、逆に、何を待っているのか(目的や意味)を問うことなし(意味の病から自由)に、人は「盲目的な」行動(営為)が可能か、そこでは盲従性からも解放されていることを、何をもって確認できるか。それが次の問題となるでしょう。もしかすると、それにはパラノイア(偏執)からスキゾフレニー(統合失調)への移行について覚悟を、絶えざる横断性、散種という行動理念を持たなければならない。
 ここまでくると、もはや「待つ」という問題でもなくて、滞留している時間で振る舞いの自由の問題になってしまう。立ち止まって、いろいろ考えさせられるものがありました。


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