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梅津時比古『神が書いた曲 音楽のクリティカル・エッセイ』 [本]

 梅津氏の本は、『フェルメールの楽器』に続き二冊目です。本は読んでいるほうですが、この方のような文章表現は、まず、お目にかかれること少ない。毎度、感心する。テーマに関連して、引き寄せてくる話題の豊かさ、言葉の詩的な、箴言的な教訓化が素晴らしい。なぜなのか、多分、出来事の<意味>というような、関係する“重さ”として、語ってはいないからだろうと思う。攻め寄せてのしかかってくるのではなく、文章に触れることで、共鳴したり気持ちが起伏するのがわかる。

 主題によって呼び覚まされた小さな振動が、忘れ去られることなく注目され、あるいは主題を引き立てる、多声的なハーモニーであったりして、豊かで多様性を持ち、高揚感を感じたり、読み進めるごとに通低音のように感情が抑揚する。この方の文章は、文字が楽譜なのではないか、と思えるほどに余韻がある。
 私にもこんな文章がかけたら、と羨ましい気持ちになる。

神が書いた曲

神が書いた曲

  • 作者: 梅津 時比古
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2013/06/28
  • メディア: 単行本

「神が書いた曲」というタイトルは、音楽によってこの世界や他者とつながることができるという認識を背景に置いている。(245)

ということですが、なかのエッセイの一篇タイトルからとっています。

「中世以来、自然は神の書物とする考え方がある。いかに自然が美しく奇跡的であろうとも、自然自体が神なのではなく、それを書いた超越的なものがさらにその奥に存在するとみる思考である。世界は神が書いた曲であるとルプーが考えているように聞こえた。」(30)

ピアニスト、ラドゥー・ルプーの奏でる音を、こう梅津氏は表現している。
 先だって、読んだハンス・ブルーメンベルグの『世界の読解可能性』

世界の読解可能性 (叢書・ウニベルシタス)

世界の読解可能性 (叢書・ウニベルシタス)

  • 作者: ハンス ブルーメンベルク
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 単行本

が、この問題を真正面から取り上げ論じていました。まさに自然の書物と啓示の書物、「神の二つの書物は一致する」というのを、カンパネラのテーゼ(77)というらしい。難解だが、興味ある方は読まれたし。

 チェコにあったナチのテレジエンシュタット強制収容所にいた作曲家たちの足跡(86-88)。「戦時中にナチに協力したと非難され、コンサートで罵声を浴びせかけられることもあった」ピアニスト、アルフレッド・コルトーが、静けさを求めていたこと(92-94)。

 シューマンの歌曲「異郷にて」がアイヒェンドルフの詩による、と紹介している。

<かなたふるさとのほうに赤い稲妻が光り/そこから雲が流れてくる/でも父も母ももうとうに死んでしまった/もうあそこでは誰も僕を知らない>(140-141)

ディアスポラの情感を、こうもうたえるものなのか。

 「夢は眠っているときに忍び込んでくるもうひとつの生なのかもしれない。それが、目覚めているときに渇望していることの反映なのか、抑圧されたことの漏出なのかは知らないけれど。」
 「なぜここでは悲しい感情が解決されないのだろうか。解決するためには誰かが必要なのかもしれない。その誰かが自分を含めて不在なのだろう。弦が不意に高まってゆくのは、探しても探しても、誰もいないからだろう。・・・その響きを聴いているうちに、人は夢の中で誰かからの声を待っているのかもしれない、と思えてきた。」(156-157)

 ハイネの詩によるシューベルトの「ドッペルゲンガー」とは、他人の空似というより、どうやらドイツ(ヘーゲルやフロイトたち)にある<自意識>の“発見”と関係しているように、私には読めるが、どうだろう。(158-159)

 クセナキスの音楽劇「オレステイア」で、

 「言葉が明瞭に意味を伝え始めると、空中の字は対訳から離れて意味不明の言語の断片となる。これも卓抜な仕掛けだろう。言語が言語として機能し始めるとき、存在の固有の体験は伝達されなくなるということである。誰にも理解されないはずの「孤独」が、「孤独」という言葉よって簡単に伝わるならば、それは「孤独」ではない。」(174-176)
 「初期ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスの言葉「同じ河にわれわれは入っていくのでもあり、入って行かないのでもある」(山本光雄訳)という存在への考察を思い出さずにいられなかった。」

そうなんだ。ヘラクレイトスは「同じ河に入れない」と言ったのではなかった!行動の一意性で存在の両義性が失われるのではない。

 シューベルトの歌曲集「水車小屋の美しい娘」の歌に、梅津氏は、ミューラーの詩に、人里離れた、水車の粉引き徒弟制度の若者に、職業差別と被差別から脱出したい娘の願望を読む。

「なによりも「君が好き」という単純な気持ちが・・・その感情がまっすぐだからこそ、差別の悲しみが増す。」(179-181)

 中国出身で今はパリに住む女性ピアニスト、シュ・シャオメイが弾いた「ゴルトベルク変奏曲」。ピアノの才能で将来を嘱望されながら、文化革命によって、自らの裕福な生まれの発覚を恐れながら、同時にその出自を恥じた。僻地への移住と労働体験としての「下放」に従い、知的なもの一切が取り上げられた。数年後、こっそり弾いたのがバッハだという。そして、文化大革命によって家族が離散し、死に目にもあえなかったという。

 「第30変奏でバッハは民衆の歌を取り上げている。そこでのシャオメイの音は素直に響き、民衆におもねることもなければ、批判もしない。その眼差しは、誰をも恨まず、受け入れるということなのだろうか。」(182-184)

 宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」に登場する“かっこう”。

 「かっこうはヨーロッパで中世から、はずれ者、愚か者の象徴であった。体制に乗らない者こそ、見通す目を持てるという思想が背景にある。だからこそ宮沢賢治は、近代合理主義によって失われた純正な響きを求める者として、かっこうを登場させたのであろう。」(185-187)

 ブロンズとチッコリーニによるベートーヴェンのピアノソナタ。

 「カントが畏敬すべきものとしてあげた「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」の言葉を思い出した。チッコリーニの場合、「道徳律」を「我が内なる悲しみ」と置き換えてもいいかもしれない。・・・人間は完全なものではない、という想念が繰り返し訪れてきた。完全でないからこそ、本質に向かう道を捜し求める。」(192-194)

梅津さん、慈愛の文章をありがとう。


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