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川島健『ベケットのアイルランド』 [本]

 本は、ぽつぽつ読むには読んでいるが、なかなか面白いと感じられるものに出会わない。
本との相性もある(たとえば求めている方向が同じで前を歩いているか、逆に、方向は違うが気づかされることがことがあるか)。また、本はいいのかも知れないが、自分の受け取る力が不足していて感じ取れないことに問題があるかもしれない。時がたてば、その本を再度受け取れることがあるのかな?

川島健『ベケットのアイルランド』は、目を開かれるような面白い本でした。

ベケットのアイルランド

ベケットのアイルランド

  • 作者: 川島 健
  • 出版社/メーカー: 水声社
  • 発売日: 2014/02
  • メディア: 単行本

 私の理解が正しいのか判りませんが、気になった事柄を記します。

 序章で、「本書の目的はベケットのテクストを、アイルランドをめぐる様々な言説のなかに位置づけ分析することである。…ベケットの軌跡と…アイルランドの歴史を交錯させ…ベケットのアイルランドの相貌の変化を写しとり、現実のアイルランドの変化に重ねあわせることが本書の方法である。」(P14)としています。
 イェイツによる(アイルランド)民族主義批判をとりあげて、イングランドとアイルランドの「中心/周辺という二項対立はもはや崩壊し、周辺同士が連結、離反しながら新たな地政学を作り上げる時代となったのだ。」(P24)
 次にベケットのエッセイ「最近のアイルランドの詩」(1934年)を読み解き、そのなかの「無人地帯、ヘレンポントス、真空地帯」という言葉をキーとして、見て取ろうということです。ヘレンポントスは、ダーダネルス海峡(トルコ)の古名で、エーゲ海とマルマラ海の境界に位置し、紀元前三二二年のディアドコイ戦争の舞台といいます。

 「…「無人地帯」はそもそも軍事用語で「緩衝地帯」を意味し、対峙する軍隊のどちらの支配下にも属さない地域を意味する。…ベケットがここで強調するのは、…「無人地帯」は所有権の確定していない場所、誰のものでもなく、またそれゆえ、誰のものでもなりえる空間を名指すための言葉である。
 ベケットは一九三〇年代のアイルランドを「無人地帯」とみていた。実際に、イギリスからの独立へと向かうその国は決して一枚岩のように団結していたわけではない。…様々な主義主張に引っ張られ、刻まれ、歪められ開いた裂開をベケットは「無人地帯」とよんだのだ。・・・
 ベケットの描くアイルランドを読み解くために、本書は「無人地帯」を拡大解釈し、・・・ベケットが残したテクストを分析するための鍵語とする。」(P27)

 著者の問題意識を明確するため、長く引用しました。この“無人地帯”の名指しについて、私自身は未消化なところがあります。一つは、アーレントの“アゴラ”ような公共性を持つ討議広場(空間)、誰のものでもなく、誰のものともならない空間として(懐古的に?)考えるべきか、あるいは単に無秩序で混乱していて、未確定で油断もすきもなく、ボーッとしていたら誰かの物(所有)になってしまう、(ウクライナ・クリミヤ半島や日本にもあるように)現実の“囲い込み”“実効支配”を争闘する“名指すべき”地帯なのか。“境界”では、本当に、潜勢的可能態という状態が“牧歌的に”開かれたまま滞留しえるのか?様々な利害が衝突している時、その対立構造を拒める(バートルビー的)倫理の立場がその“境界内”に成立するのだろうか?“無人地帯”とは、入れ子になって空けられた有人地帯に過ぎないのではないか?・・・など、考えを呼び覚まされるほどの提案だ、と言っておきましょう。

 著者は、章ごとに魅力的なテーマを縦横に論じています。いろんなテーマがあるので深追いせずサラッと記すことにしておきます。

ダンテの『俗語詩論』(1305?)を題材に、ウンベルト・エーコやジョルジョ・アガンベンを踏まえ、

「・・・ダンテは、「俗語」を神学(完全言語)や政治(普遍言語)から解放する。」(P86)

T・S・エリオットの検討では、

 「・・・その修辞の曖昧さにこそ彼の政治的な意図が込められている」(P89)
 「詩人と言葉の関係を論じるこの文章では、…詩人と言葉の互酬的関係は共同体意識を強化する。…詩人の役割とは言葉を通して人々の感性を高めることにある。主人的態度が詩人と言語の一対一関係を前提とするのにたいして、召使的態度は、言語を通して多くの人々の感性教育に益することを目的とするため、一対多の関係を目ざす。…エリオットは「共通言語」の重要性を訴え、詩と日常言語の有機的関係を強調するのだ」(P93)
 「…エリオットの共通言語への希求は言語を資源とする考えに基づく。」(P95)

 「…ベケットはダンテを読むことにおいて、芸術と日常、テクストと現実を切り離すことが必要であることを強調する。」(P97)
 「「高貴な俗語」が文学形式であることを明記するベケットは、社会に還元されぬ余剰性こそがダンテの言語的特徴であり、そのような言葉こそ文学にふさわしいと考えた。ヴァーチャルな時空にしか存在しないのであれば、その言葉は発生の起源を歴史的に求めることはできない。それは神の言葉(完全言語)の喪失を代補するものだが、神の言葉を再現するものではない。…ダンテの俗語は「完全言語」という起源への遡及を封じたところで創り出されたものだ。言葉の起源を遡及的に探し出そうとし、その帰属を求める探求にたいする疑義をベケットはダンテから引き継いでいる。」(P101)

 「ベケットが「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・ジョイス」の冒頭で敷衍するヴィーコの言語論がここでは重要だ。『新しい学』(一七二五)でヴィーコは、詩人は人類の感覚であり、哲学者がそれを理性的に解釈するという。その詩的言語の要点は、国家に芸術が従属するという考えを転覆し、詩と物語こそが国家の起源だという主張にある。…その言葉は公式の言葉(普遍語)ではなく、詩的な言語でなければならない。」(PP108-109)

 なるほど人類最古であろう、リグ・ヴェーダ賛歌があってウパニシャッドが生まれるのであって、逆ではない。その後の言葉の発展と精緻化や公定語の確立において、プラトンの『詩人追放論』(オウィディウスやマヤコフスキーの、あまたの詩人の亡命や死)を含め、国家は何を求めるものかを示すものでしょう。もし詩が《歴史的に》国家の起源(目的化)となるなら、(残念ながら転倒して)実現した国家は《論理的に》詩を源泉(道具化)にする、という神話化と世俗化の関係が両立すると思います。肝心なのは、古代・古典の真相というよりも、誰が実利を引き出してきたか/しまうのか?でしょう。

 これ以降も、翻訳についてや、名付けについては“スタインの言語”とか“唯名論的詩論”、廃墟論では社会構築主義と本質主義との対立についてなど、興味深く玉手箱のような話題を取り上げてくれています。刺激的でどれも面白い。体がしんどくて書き切れないので、何かの話題で、この本に立ち返ることにしたいと思います。こうしたテーマを、まさかボルヘス風に書かないでしょうし、下記のオーデンのようにも書かないとすれば、この著者川島氏の本として書かれ、読まれなくてはならないでしょう。


 さて、ヘミングウェイの『移動祝祭日』で、パリのレストランでジョイス一家はいつもイタリア語で語り合っていたことのわけや、ベケットがフランス語で書いたことについて、菅啓次郎が「語学者ベケット」で、「ベケット家はもともとフランスから逃れてきたユグノーの家系だったから、フランス語に戻ることは先祖の言葉に戻ることだった。」という一つのエピソード紹介し、<母語>と<外国語>の問題、多和田葉子の<エクソフォニー>を振り返る機会ともなっています。

 この本で感じたことは、支配文化と民衆文化としてのイギリスとアイルランドの関係理解に、ベケットがどう切り開く可能性を持ちえているか、つまり従属する現実を解決する出口を見出せるか(二項対立のダブルバインド、ポストコロニアルの論議、読者の共感や連帯のテーマも論じています)ということなのか。または文芸批評としてのベケット文学が示す地平線をアイルランド方角で照らしただけ、ということなのか、著者川島氏の視点立場がもうひとつ飲み込めなかった。これが、著者のいう“無人地帯”なのかもしれないが…。


 それから、ヘミングウェイでよく知られている《ロスト・ジェネレーション》(第一次大戦後の迷える、自堕落な世代)に対して、この本で《オーデン・ジェネレーション》(P83)というものも知りました。それは、スペイン内戦に参加していく知識人、A・マルロー、ヘミングウェイ、G・オーウェルらの動向、「詩がもはや机に向かって書くものではなく、行為とともにあり、ある種の決意表明となった時代だ。」(P83)というものです。


 機会があれば、著者の文章をまた読みたいという印象が残りました。
 最後に、本カバーのスケッチが、ジャック・B・イェイツのもので、「オコンネル橋かにみたダブリン、1916年5月12日」でイースター蜂起後の首謀者の処刑日のことで、オコンネル・ストリートのネルソン記念塔とダブリン中央郵便局を描いたもので、思い入れを感じ、グッとくる。
 著者の「あとがき」にある、

 「本の頁を照らすのは仄暗い情熱であるべきだ」(P257)

まるでゲーテの『ファウスト』に書かれているかのような言葉、詩人だなぁ、と感心しました。

 


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