スーザン・ソンタグ『こころは体につられて 日記とノート1964-1980 上』 [本]
日記の第一巻『私は生まれなおしている』に続き、第二巻(の上)ということです。
ソンタグ31歳~47歳の日記、既に小説や『反解釈』などを出版もしているせいか、メモかな、という印象です。
私が、気になった言葉を記しておきましょう。
自分から世界を批判する判決を出せないなら、自分自身を批判する判決を下すべきだ。(P73)
ニーチェ:「事実というものは存在しない。存在するのは解釈のみである。」(P94)
「人間は真理を体現することはできても、それを知ることはできない。」W・B・イェイツ(最後の手紙)1939年死去(P125)
ノヴァーリス・・・新たな芸術は書物の総体ではなく断片だ、看破した。断片術-意思疎通の阻害ではなく意思疎通を絶対的なものにするための断片的な言語の必要性(P195)
「独りっきりで本を書く人間なんていないよな。本はすべて共同作業の賜物さ」。(P200)
エヴァが指摘したとおりだ。「カント」から「D・H・ロレンス夫人」への大転換がなかったら、フィクションの執筆など私にけっしてできなかっただろう。(P361)
ここあるのD・H・ロレンス夫人とは、フィクションとしての作品『チャタレイ夫人の恋人』を差しているのか、ノンフィクションとしての、ロレンスが駆け落ちをした人妻フリーダ・フォン・リヒトホーフェンのことだろうか?この「カント」から・・・という一行から、CMでもお馴染みの、与謝野晶子の《柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君》という短歌が思い出される。ソンタグが日記で性の問題を書き記している悩みからも、それはノンフィクションだろう。
無音と還元について、ケージ+ソローの考え(P367)
ケージはジョン・ケージのことだろうし、ソローはヘンリー・ディヴィット・ソローのことだというが、さて、この小さな短文から何が構想・展開されようとしているのか?
1920年代はロシアの近代芸術で最も素晴らしい時代だったけれど、彼らは先を行きすぎた+孤高すぎた。(P369)
として、エイゼンシュタインやマヤコフスキーに触れていました。
・・・(ベルナルド)ベルトルッチの映画『革命前夜』の提言(モットー)-「革命の前の時代に生きていなかったものは、人生の甘美を一度も味わっていない」・・・(P373)
1968年ベトナム(戦争下)ハノイでの文章らしいが・・・後藤篤志著『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』を読んだから言うわけではないがないが、甘美といえるものかどうか、保留をしておこう。
革命のための言語が革命を裏切る。(P380)
の方が、正しいかも。
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