江藤淳『考えるよろこび』について [本]
江藤淳については、ヘレーン・ハンフ編著『チャリング・クロス街84番地』の訳者、それからアントレ・ゴルツの死を知ったとき、日本でも江藤淳が妻を亡くして追うように自殺した、という程度しか私は知らなかった。ウィキペディアで調べると、皇室に嫁いだ雅子さんの実家小和田家と親戚関係(ウィキペディア)になるようです。
この本は講演集(1968頃)です。
「考えるよろこび」、「転換期の指導者像-勝海舟について」「二つのナショナリズム-国家理性と民族感情」と読み進めていくと、タイトルとだいぶ違う印象を受けました。演題「考えるよろこび」で、江藤淳が語ったこと、というのが正しいのかな。
初め、「・・・考えるという人間の行為にはいろいろな方向がある。」として、自然の分析・実証、法則、因果律や必然性という方向がある。しかし、「・・・自分についての発見ということが、ものを考えるということの出発点でもあり、ゴールでもあるのではないか・・・」(P11)と説き起こします。この江藤の考え方は、F・M・コンフォード『ソクラテス以前以後』に共通のものです。
「プラトンはある対話編において、ソクラテスが成し遂げた思想革命、つまりどのようにしてソクラテスは外的自然の研究から、人間の研究および社会における人間行為の諸目的の研究へと哲学を転回させたかをソクラテスその人に述懐させている。」(P12)
「この早い時期の自然学においては、・・・その事象がどのようにして生起したかということのより詳細な描像を提供する。しかしそれはなぜ生起したかをわれわれに教えはしない、とソクラテスは考えた。ソクラテスが求めていた種類の原因説明は「なぜ」という問いへの理由づけだった。」(P13)
江藤淳は、さらに進めて、ソポクレス『オイディプウス』、ソクラテスの死、エドマンド・ロス上院議員(米合衆国)のエピソードを詳述します。その問題意識は、「転換期の指導者像-勝海舟について」でも同じように感じました。
「・・・人間のあるべき姿、人間が自分の運命を勇敢に引きうけていけるような精神の気高さと悲惨さのなかの威厳・・・」(P28)を描き出しています。
ここにあるものは、自分の信念が、引き受けるべき運命をもたらすものなら、覚悟の上で受け入れること、と主張しているように思います。社会的に読むと、<問題>を他者に委ね、あるいは転化し、そこから逃避することのないあり方。それがどんなに割に合わず、最悪自らの死が待ち受けようとも、自身が引き受ける度量を持つべきだ、と言っているようです。同時に、人間の生き方として考えると、宿命論(ソポクレス的悲劇、命ぜられるままに毒杯をあおるソクラテス)に逆らわず、それを全うすることが尊い、と言っているようです。
ただし、そうした潔(いさぎよ)さは稀(まれ)だろう、と思う。また、そこには独善性の罠、落とし穴もひそんでいる気がしてならない。例えば、2・26事件の主力となった第一師団が、その後、どんな哀れな末路をたどったか?(岡田和裕『満州辺境紀行』P88 など)
満州辺境紀行―戦跡を訪ね歩くおもしろ見聞録 (光人社NF文庫)
- 作者: 岡田 和裕
- 出版社/メーカー: 潮書房光人社
- 発売日: 2013/12/31
- メディア: 文庫
それと反対に、多分に打算的で、状況に身をゆだねて流される(生き残る)、そうはならない人々の存在がある。この人々によってのみオイディプウスの悲劇性も成立しうるし、ソクラテスの毒杯も為政者のためにではなく、そうした人々のためにこそ死を選び取ったはずだ、と思うのです。江藤淳の説は、もし、客観的記述を許されるなら、人身御供、スケープゴート、人柱への宿命へ、話者としての悲劇的な“本人の語り”という説話の構造にもなっている。そんな違和感がずっと残るものでした。
問題はやはり、このそうはならない人々と折り合いをどうつけるかでしょう。さもないと、人身御供と等価で置き換えられて英雄主義に転化した場合、江藤の言う「悲惨さのなかの尊厳」とは、ただ膨大な悲惨を生むのでは?という疑問が残ってしまいました。
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