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アルベルト・マングェル『読書礼賛』(2) [本]

まず初めに、今回は、後半としてまとめられず<中>ということになりました。

「ロシアの作家イサーク・バーベリは書いている。「完全に結末をつけようとするあの力をまさに正確な場所に用いなければ鉄といえども心臓を刺しつらぬくことはできない」。言葉の強力さと無力さの両方を知る者にとって、この信頼に足る最後の小さな点ほど役に立ってくれるものはほかにない。」(P177)

「カン・グランデ・デッラ・スカラにあてた有名な書簡で、ダンテは読書について語っているが、…読書の分類、または段階的な読書(逐語的、寓意的、類推的、神秘的)についての議論がなされるが・・・」(P201)

「セルバンテスと同じように、私たちは自分の運命をほとんど見きわめることができない。意識に縛られた私たちは、生きることが旅に似ていると理解している。すべての旅がそうであるように、人生には始まりがあり、いつかまちいがなく終わりが来る。だが、いつ最初の一歩が始まり、その歩みがいつまで続くのか、この旅でどこに向かうのか、その理由は何か、どんな結果が待っているのか、これらの問いかけには、非情にもけっして答えが得られない。ドン・キホーテその人と同じように、私たちは自分を慰めることができる。自分の善意と高貴な苦しみがいつかきっと不可思議なめぐりあわせで自分の人生を正当化してくれるに違いない、課せられた役割を果たすことで自分はひそかにこの宇宙を支えているのだと信じることによって。」(P207)
「セイレーンが登場する『国家』の同じ巻で、プラトンはすでに世を去った古代の英雄たちに、生まれ変われるとしたらどんな一生を送りたいか語らせている。オデュッセウスの魂は、前世で野心ためにどれほど苦労したかを思い起こし、他の魂が軽視して捨て去った、ごく平凡な市民として生涯を送りたいという。…それと引き換えに欲したのは、無名人としての静かな暮らしだった。」(P219)

 人は死んで名を残す。英雄の時代は死の最後の瞬間までおだやかな時間を与えないだろうと思う。日常を捨て非日常を選び取ることは、安らぎを捨て去って、激動を突き進むことなのだろう。マングェルが『チェ・ゲバラの死』を書いたことも伏線はこれだろう。「毛(沢東)の盟友彭徳懐は北京の西郊の農村で労働と読書の日々を送っていたが、「六六年暮、江青、林彪の意を受けた紅衛兵によって北京に連れ戻され、繰り返し批闘(批判・闘争)大会で残酷な暴行を受けた末、病院に幽閉され」「監禁されたまま七四年十一月、七十六歳で死去」した。」大池文雄『水戸コミュニストの系譜』(P344)。外なる世界での少しばかりの冒険と内なる世界のっぺりとした平凡な私生活を、混合して個人の都合で生きることは出来ないという教訓かな。

「市民の反抗精神をそそのかすという理由で『ドン・キホーテ』を禁書にしたピノチェト…」(P228)

ラテンアメリカ十大小説 (岩波新書)

ラテンアメリカ十大小説 (岩波新書)

  • 作者: 木村 榮一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/02/19
  • メディア: 新書

 『ドン・キホーテ』については、木村榮一『ラテンアメリカ十大小説』(岩波新書)でも、「(ラテンアメリカの)植民地時代は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を所有しているだけで異端審問にかけられるほど厳しい検閲制度が敷かれていました。」(P7)とこの本の特異な性格を伝えています。今思えば、私も中学時代に読んで、あまりの面白さに、いつかもう一度読もう、と心に誓った唯一の本であったことを思い出します。

「「少なく考え、たくさん働け」というのが、二〇〇七年七月二十一日、当時ニコラ・サルコジ政権の財務担当相だったクリスティーヌ・ラガルドが発したメッセージ」(P241)

「パラドックスや未解決の難問、矛盾や混沌とした秩序について深く考えることの困難に直面した私たちは、ローマ元老院の大カトーの叫び、「カルタゴは滅ぼされるべきである!」を思い起こさずにはいられない。すなわち、他の文明は受け入れがたく、話し合いなど拒否して当然、追放と滅亡によって法律を順守させるべきである、というのだ。」(P242)

 同じ逸話はまだあって、紀元前三世紀、ギリシア時代のシチリアで、攻め込んだローマの将軍はアルキメデスを殺さず生け捕りにしたかったが、一人のローマ兵が七十五歳になっていたアルキメデスを連行しようとしたとき、「そこに立って私の図形を乱さないでくれ」といい、それに激昂してアルキメデスを剣で殺害した。そうしてローマは三千年のギリシア文明(様々な発明、アンティキテラなどもありました)を引き継がず、途絶えてしまう。再び、アラビアからギリシャ文明を再発見する十二世紀のルネサンスの目覚めまで、一五〇〇年近く惰眠してしまう。
 マングェルは、ナチによるホロコーストに先立って、トルコ政府によって「…最も古い歴史のあったアナトリア地方の全住民、子供を含めた男女およそ百五十万人以上が一九〇九年から一九一八年のあいだに皆殺しにされた。」(P158)と、第3章覚書で記していました。

「人が最初に抱く強い感情は、自分の周囲にあるものを解読したいという欲求だ。あたかも森羅万象に意味があるかのように。意味を伝えるための記号体系―アルファベット、象形文字、絵文字、社交のための身振り―だけでなく、人は身のまわりにあるもの、人びとの顔、鏡に映った自分の姿、目に入る風景、雲や木々の形、天候の変化、鳥の飛翔、昆虫の足跡にさえ意味を見出そうとする。世界でもとくに古い書記法である楔形文字は、五千年前にユーフラテス川の泥についた雀の足跡を模してつくられたという伝説がある。私たちの祖先は、それを偶然についた痕跡とは思わず、神意を伝える謎めいた文字だと考えたのだ。」(P244)

人は意味に飢えている。

「…ヴォルテールはパスカルに異論を唱え、さらにこうつづけた。「心を慰めるためには、蜘蛛と土星の環のあいだにどんな関係があるのかなど知らないほうがよい。自分の手の届く範囲のことだけを追求すべきである。」」(P247)

 私も、抽象的な問題をどう考えても、結局は自分の手の届く範囲のことしか、触れることも感じることも、また何か影響や変化を及ぼすこともない、自分の力の限界を冷徹に考えたことがありました。

「野生のままの自然とは、いわば閉ざされたままの本である。ページを開いて読みはじめなければ、中身は存在しない。」(PP251-252)

「…オルダス・ハクスリーは『知覚の扉』に書いている。「だが、いかなる状況にあっても、常に孤独である。殉教者は手に手をとって刑場に歩み入るが、十字架にかけられるときは一人である。抱き合う恋人たちはそれぞれの恍惚を溶けあわせ、自己を超越したひとつの存在に昇華しようとするが、それはむなしい試みだ。そもそも、人間の形をとった魂はすべて、苦しみも喜びも孤独のうちに味わうものである。」」(P258)

 これは個人の知覚について書かれているなら、オクタビオ・パスが『弓と竪琴』真理の感得について語ったことに等しい。

「アレクサンドリアの図書館の目録作成に苦労した担当者がいうように、二つの写本は決して同じものにはならず、「決定版」を選ばなければならなかった。」(P290)

本は、複製という同義反復のままに止まって制限され続ければいいが、「読者はそれぞれ、自分の本に書き込みをし、しみをつけ、さまざまな痕跡を残して、自分だけの一冊を作り出す。そうなると、一度でも読まれた本は、もはやけっして他と同じにものにならない。」(P290)一つの物語から、「さまざまに形を変えた物語が派生した。」(P394)オリジナルの本とは、引用とは無縁なのか。「一冊の本は過去のすべての本の血筋を受けついでいるからだ。」(P396)

「すべての読者が知っているとおり、本を読むという行為の要点、すなわちその本質はいまも、そしていつまでも、予測可能な結末がないこと、結論がないということだ。読書のたびに、それは別の読書へとつながる。」(P294)

さらに次回で。


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