SSブログ

アルベルト・マングェル『読書礼賛』(3) [本]

さて、第6章の本をめぐるビジネスでは、翻訳についての文章が収められている。しかし、もっとも興味をもったのは「ヨナと鯨」という文章です。ヨナは旧約聖書の預言者で、旧約聖書の知識がなくても、ヨナ書が簡略されて紹介されています。とりわけ政治と芸術という関係で面白く読めました。

芸術家には死後の名声だけで十分なのだ」(P326)
「プラトンにとって、そもそも真の芸術とは政治家だった。正義と美という神聖なモデルにそって国家を築く人びとである。一方で、作家や画家といったふつうの芸術家は、そのような価値のある現実について思いめぐらすことをせず、たんに幻想を紡ぎだすだけであり、それは若者の教育にそぐわなかった。芸術は国家に奉仕するときだけ有用だとするこうした考え方は、何代にもわたるさまざまな政府に支持されてきた。皇帝アウグストゥスが詩人のオウィディウスを追放したのは、この詩人の書くものに潜む危険性を察知したからである。」(P331)

 以前に、『マヤコフスキー事件』の運命について書いたこととつながる話です。
 マングェルは、フローベールの『紋切型辞典』をひいて、芸術家に対する19世紀ブルジョアの考え方として、「芸術家―すべてが道化師。無私無欲な態度が賞賛される。ふつうの人と同じような服装をしていることが意外に思われる。たくさん稼いでも、残らず使い果たす。」(P332)を引用しています。身持ちの悪さ、放蕩、蕩尽、破天荒さ、普通と(どれほど)異なっているかが、高度な?芸術性をあらわすのでしょう。「すべてが道化師」とは、さすがはフローベール。

「芸術家に対する彼らの態度をあらわす言葉は、第二次大戦中にユダヤ人移民の受け入れに対処したカナダ移民局の役人が口にした言葉「ゼロでも多すぎる」と同じだ。」(P332)

「ドードー鳥の伝説」(PP355-356)というモーリタニアの言い伝えは、短い寓話ながら面白い。

 第7章罪と罰。「読書から学べるとおり、人間の歴史は不正のはびこる長い夜の物語である。」(P348)という文から始まる「神のスパイ」(1999年)は、大変印象深いルポルタージュになっています。マングェルが学生時代に知り合った女子下級生の話。1969年にブエノスアイレスを離れ、1982年に短期滞在で戻ってみたら、学生自治委員会のメンバーだった彼女は誘拐され行方不明になっていた。今回のワールドカップでもお馴染みの、アルゼンチンの軍事独裁政権下の出来事です。
 1976~78年の時期に軍による処刑として、看守であった曹長ビクトル・アルマンド・イバニェスのインタビューを紹介しています。

「囚人たちはパナノバルという強力な薬を注射され、数秒間で息絶えた。その薬は心臓発作のような症状を起こした。それから、彼らは海に投げ込まれた。飛行機は高度を下げて飛んだ。それは隠密飛行で、記録には残されなかった。ときたま、鮫のような巨大な魚影が飛行機のあとを追ってくるのが見えた。奴らは人肉で肥えているとパイロットがいった。」(P351)

地を這うように―長倉洋海全写真1980‐95 (フォト・ミュゼ)

地を這うように―長倉洋海全写真1980‐95 (フォト・ミュゼ)

  • 作者: 長倉 洋海
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/06
  • メディア: 単行本

私は、この話を読んで、『地を這うように―長倉洋海全写真集1985-95』のエル・サルバドルでの「内戦の中米へ」に収められた、女性を殺害して野ざらしになった一葉の写真(著作権があるから写真を出すわけにはいきません)が浮かびました。何があったのか、恐ろしい情景となって迫るものがあります。
 こうした時代の評価を巡り、バルガス=リョサの問題記事、ファン・ホセ・サエールの反論、フリオ・コルタサルの見解を載せています。関連して、『疎外と叛逆―ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話』、『抵抗と亡命のスペイン語作家たち』も面白かったですよ。

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

  • 作者: G. ガルシア・マルケス
  • 出版社/メーカー: 水声社
  • 発売日: 2014/03/31
  • メディア: 単行本

抵抗と亡命のスペイン語作家たち

抵抗と亡命のスペイン語作家たち

  • 作者: 寺尾 隆吉
  • 出版社/メーカー: 洛北出版
  • 発売日: 2013/11
  • メディア: 単行本

「記憶のおかげで、自分という存在、そして自分が見るものに意味が与えられる。」(P365)


第8章荘厳なる図書館から「理想の図書館とは」

「理想の図書館の入り口には、ラブレーの金言をもじった「汝の欲するままに読め」という言葉が掲げられている。」(P387)
「理想の図書館は、つねに更新される終わりのないアンソロジーである。」(P389)

次の「さまよえるユダヤ人の図書館」から

「国を持たない放浪者と都市居住者、遊牧民と農民、探検家と家庭を守る者…は、あらゆる時代において、この二つの憧れを体現してきた。片方は外に向かい、もう一方は内に留まろうとする。…人を駆り立てるこの二つの力は競い合うと同時に補完しあう。自分の故郷と呼ぶ場所から遠く離れることで、人は自分の真のアイデンティティを感じられる。だが同時に、自分の内面を深く見つめることから気を逸らされることも多い。…」(P397)
「やがて、日常生活と夜の物語の違いに気づくと…本のおかげで、言葉が日常生活に意味を与え、夜の物語を理解できるものにし、そして昼と夜の両方にいくらかの慰めを添えてくれているのだ、と。」(P398)

「…敵をやっつけ、みずからを守りたいという思いが強いあまり、私たちは安全であるとはどういうことかを忘れてしまう。あまりにも大きな不安のなかで、自分たちの権利と自由が歪められ、あるいは切り詰められるのを許してしまう。外にいる他者と対峙するかわりに、私たちは内に閉じこもってしまう。自分たちの図書館が世界に開かれるべきものであり、世界から孤立するふりをしてはいけないということを忘れてしまっている。私たちは自分自身の虜囚になっているのだ。」(P401)

「永遠にさまようことは罰なのか、それとも世界を知ろうとする啓蒙的な行為なのか。居心地のいい自分だけの場所は報償なのか、それとも忌むべき沈黙の墓場なのか。「他者」とは名前のない敵か、それとも自分自身の投影なのか。私たちは一個の孤立した存在なのか、それとも時間を超え、世界を意識した多くの存在の一部なのか。」(P402)

マングェルは、六十年余の遍歴生活で集めた三万冊ばかりの蔵書を持って、フランス、ロワール渓谷の南の小さな村に住むという。二〇〇八年には緊急手術に迫られ、「人生のあるとき、私たちはたくさんの本のなかから、なぜその一冊の本を伴侶として選び出すのだろう?」(P414)と、私がガン手術受けたときのように、迷ったようです。私は(七千冊余から)結局選べなかったのですが、マングェルは「結局私が頼んだのは『ドン・キホーテ』の二巻本だった。」といいます。私なりに得心のいく選択のような気がします。
 さて、「訳者あとがき」に書かれているように、ブエノスアイレスに生まれ、イスラエル駐在大使の息子としてテルアビブで幼少期を過ごし、小学生でアルゼンチンにもどり、ユダヤ人である人種アイデンティティに気づく。高校生になると、先住民の貧困を目にして社会の暗部を垣間見るが、チェ・ゲバラのように革命に身を投じることは出来なかった。そのころボルヘスをはじめとする作家たちと知り合ったという。アルゼンチンの軍事政権が権力掌握した時代、大学を一年で中退して、ヨーロッパで放浪生活を送る。

「そのままアルゼンチンにとどまったら、友人たちの多くと同じように、軍事政権に与するか、あるいは抵抗運動に身を投じるかの選択を迫られ、後者を選んだ場合は逮捕、拷問、行方不明という運命を辿っていたかもしれない。故国を捨て、家族や友人たちの苦境から距離をおかざるをえない亡命生活は苦渋の選択だったはずである。」(P427)

私にとって、マングェルの半生のメモリアルが、なんとも熱く胸に迫るものが感じられる。重みのある一冊だと思います。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。