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映画『やがて来たる者へ』を観てきました。 [映画]

 連合軍は1943年8月17日にイタリア・シチリア島を解放、続く9月3日にイタリア半島の先端部に上陸。1944年5月、カイザー線を突破し、6月4日イタリア首都ローマが陥落した。イタリアのドイツ軍の南部防衛線を越えた。
 ドイツ軍はイタリア中部に「ヴィテルボ線」「トラジメーノ線」「アルノ線」「ゴシック線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続けた。しかし、アルノ線まで連合軍の突破を許し、8月11日トスカーナのフィレンツェが陥落した。フィレンツェにはアルノ川が流れているので、フィレンツェでの攻防を「アルノ線」という。ドイツ軍がアルノ線から撤退した後の前線を「ゴシック線」という。だが、連合軍はノルマンディー上陸作戦のため一時攻撃を中止し、9月以降ゴシック線で両軍のにらみ合いが続いた。
セントアンナの奇跡.jpg

 そのフィレンツェ解放の翌日起きた事件。
1944年8月12日、イタリア・トスカーナのサンタンナ・ディ・ スタッツェーマ市(アメリカではサンタンナをセントアンナと発音)を、ドイツ軍300名が襲撃 し市民560名を皆殺しにした事件。セントアンナの大虐殺をテーマしたスパイクリー監督の『セントアンナの奇跡』(2008)がありました。

 

 ゴシック線の膠着した戦線上で、ドイツ軍に対する住民とパルチザンという構図で、ジョルジョ・ディリッティ監督『やがて来たる者へ』(2009)は、9月29日から10月5日まで続いたドイツ軍による、パルチザン掃討として、ボローニャ地方モンテー・ソーレの山間部の農民、マルザボットの虐殺(771人)という住民虐殺事件をテーマにしています。

 

 弟の死が原因で言葉を発しなくなった、8歳のマルティーナという少女を通して、事件の全貌を目撃することになります。叔母として『ボローニャの夕暮れ』に出演のアルバ・ロルヴァケルも出演していました。


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村山俊夫著『アン・ソンギ-韓国「国民俳優」の肖像』 [映画]

 中国の映画を取り上げたついでに、韓国映画についても話題をひとつ。

アン・ソンギ――韓国「国民俳優」の肖像

アン・ソンギ――韓国「国民俳優」の肖像

  • 作者: 村山 俊夫
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/04/15
  • メディア: 単行本

 南のパルチザンをテーマにした李泰著『南部軍』という小説を映画化した作品『南部軍』(1990)があります。
南部軍.jpg

南部軍―知られざる朝鮮戦争  村山俊夫著『アン・ソンギ-韓国「国民俳優」の肖像』では、その作品の2005年6月韓国版DVDの存在(日本語版はない)を明確にしていないようです。その存在を、本の追加修正情報として、取り上げておきます。


 また yohnishi's blog というアジア映画ブログでも http://yohnishi.at.webry.info/200810/article_7.html 2008年10月に、主演のアン・ソンギではなく、自殺した女優チェ・ジンシルのデビュー作品として取り上げられ、紹介されています。


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『孔雀-我が家の風景』 [映画]

 『孔雀-我が家の風景』(2005)という映画を観ました。
 この映画の好み・評価は分かれるでしょう。ヨーロッパ映画が好きなら方なら、孔雀がわかるでしょうが、それ以外の方には、暗いだけの映画かもしれません。フランス北部の美しくも荒涼たるフランドルの風景にしたブリュノ・デュモン監督『フランドル』(2005)が、風の音だけをバックしていました。このクー・チャンウェイ監督の作品は、さらに音を押し殺しています。

孔雀 我が家の風景 [DVD]

孔雀 我が家の風景 [DVD]

  • 出版社/メーカー: アミューズソフトエンタテインメント
  • メディア: DVD

 それが1970年代の中国の文化大革命の嵐が去った後の、地方の貧困に閉じ込められた若者の気分を、うまくすくい上げているように感じました。
 つらく意味のないもの感じられる生活に、突如、空から舞い降りる中国人民軍のパラシュート部隊の降下訓練が目にとまる。そんな生活から何とか抜け出そうと、人民軍のパラシュート部隊に志願する娘ウェイホンだが・・・。
 長兄ウェイクオは、子供の時の脳症で障害を負ってしまっているのだが、彼に対する周囲の迫害や家族の軋轢。それでも、子供の時に負った怪我を貧しさで治療できずに、やはり足が不自由になってしまった農家の娘ジンズィと結婚し、屋台を始めて繁盛していく。
 末弟ウェイチャン、家を飛び出し、やくざな生活の果てに、子連れの女を連れて戻り、自堕落な生活のまま・・・。
 そんな、三人の子供たちをオムニバス形式で撮り、最後は、動物園でいくら待っても尾羽を開かない孔雀をあきらめ、去った後に孔雀は尾羽を優雅に開く。

 娘ウェイホンが憧れて作った水色のパラシュートと、孔雀の尾羽は、重ねて見ることが出来る。
そして、惨めさから抜け出そうとあがく娘ウェイホンも末弟ウェイチャンも、大空で開くパラシュートに憧れるように幸せを手に入れたのか。精神障害を負っているが長兄ウェイクオだけが、数え切れないイジメやつらさを乗り越え、人知れずとも、その場で小さくても豊かな生活を手に入れる。

 途中、挿入される音楽は、娘ウェイホンには、朝鮮族の孤独なおじいさんがアコーディオンで引く朝鮮民謡の「トラジ」。文化大革命で迫害を受けた閉塞の中にあえぐ中国朝鮮族の望郷性も自殺という結末を迎えている。一家離散するディアスポラや自治区からも追われたエグザイルの象徴かもしれない。長兄ウェイクオは、弟の学校で聴きいった女生徒の歌声が、女子トイレ前だったために痴漢事件に発展し、大騒ぎに。子連れの妻に場末の酒場で歌わせるヒモの生活をつづける末弟ウェイチャン。これらが静謐な日常の生活に、対比する音として登場するが、それ以外は、むしろ押し殺された沈黙の嗚咽(おえつ)。市場で赤いトマトを手にしながら娘ウェイホンは声にならない悲鳴をあげている。
 青い鳥のように寓意性の強い映画、エリック・ロメールのような味わいを持つ作品でした。


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シチリア!シチリア! [映画]

 この映画は、上映中に気になっていたのですが、尺の長さでコマーシャルタイムを入れると3時間に近いのだろうと、恥ずかしながらトイレが心配で、恐れてしまって行かないままやり過ごした作品でした。ようやくDVD化されたので、安心して観ることが出来ました。

シチリア!シチリア!スペシャル・エディション [DVD]

シチリア!シチリア!スペシャル・エディション [DVD]

  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • メディア: DVD

 シチリア島バーリアを舞台に、ファシズム支配から、アメリカ軍による上陸解放と、戦後の復興期に利害対立の中で、一家族の生活を通して映しだされた映画です。『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)を撮ったジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品で、構成的に「シネマ」という憧れが、こだわり感たっぷりに描かれていたように思います。
また、『マレーナ』(2000)を撮ったからみか、モニカ・ベルッチも出演しているが、思春期の少年の視線であることは、変えたくないようです。

シシリアン 【プレミアム・ベスト・コレクション\1800】 [DVD]

シシリアン 【プレミアム・ベスト・コレクション\1800】 [DVD]

  • 出版社/メーカー: UPJ/ジェネオン エンタテインメント
  • メディア: DVD

 これとよく似ていると感じたのは、マイケル・チミノ監督の『シシリアン』(1987)です。義賊としての側面からの、サルバトーレ・ジュリアーノの伝記物語なのだが、ハリウッド映画っぽい要素の差し込みで、戦後のシチリアを撮っていたので、<イタリア・故郷・郷愁-アメリカ・移民・憧れの土地>の対照性が、感じられます。
 同じ時代の農民たちの生活を、このトルナトーレ監督の作品ではバーリアでのイタリア共産党支部の活動の視点から、チミノ監督の作品では貴族とマフィアと山賊の視点から、描いているという点にもあります。

 また、『シシリアン』では、「農民が求めているのは、土地ではなくパンだ」ということが語られていました。土地所有と農民の経営自立より、怠惰な農民の耕作労働ではなく施しとしてのパンが必要だということでしょう。なかでD.スカルラッティのソナタが蓄音機のレコードから流れる貴族的な嗜好性と、インターナショナルを歌いながらデモする農民運動を、マフィアの手先になったジュリアーノたち山賊たちが、機関銃で掃射するシーンは胸を詰まらせます。
 『シチリア!シチリア!』では、農地解放が描かれているのですが、主人公の貧農の息子ペッピーノは、戦後ソ連に共産党支部代表として政治学習にいったが、失望してか、貧しさのためフランスに出稼ぎに・・・。最後は、過去の貧しいシチリアでの暮らしと、現在のシチリアの再開発の姿を、対比させます。

 失われ行く貴族と義賊、議会やキリスト教とマフィア支配、戦後の共産党。シチリアが抱えている問題を、郷愁のシネマに描き止めた作品だ、と言えるでしょう。

アンジェラの灰 [DVD]

アンジェラの灰 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 角川映画
  • メディア: DVD

 この貧しさをたくましく生き抜く子供たちのテーマは、また『アンジェラの灰』でも同じだと思いました。

 


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映画『4月の涙』について [映画]

 映画の出来は、お世辞にもいいとは言えない。
4月の涙.jpg 赤衛軍に止めを刺す白衛軍のフィンランド内戦を背景にしている。が、どこにもそうした政治の信条や倫理性は現れない。むしろメス犬の社会主義者。ここで期待感が、まず破られる。
 <ロシア従属・祖国独立・労農の解放>という、ローザ・ルクセンブルグがポーランドに見た、宙吊りの三角関係と同じ構図が、ここには見て取れる。逆に、戦争には、そんな大義や美徳は微塵もない、という女性兵士の<涙>の表現とも言うべきなのだろうか。ミーナ役のピヒラ・ビータラの、切ないまでの迫真の体当たり演技を褒めるべきか、それがこの映画のアンバランスを更に深めている。

 (話は、戦場から転じ)もと精神病院施設であった捕虜収容所で、上官ハレンベルグの人間性は、人間的な葛藤と歪みとミステリーに包まれている。
 アーロという白衛軍の兵士は、孤島で二人きりになってもミーナを他の兵士のように襲うことはない。しかし、不思議なことに、尊敬している上官とは部屋内でドア一つ挟んで、その上官の妻を誘われるままに犯すことが出来る。<判事・妻の不倫・独身兵士>という三角関係の構図をなしている。
 一方、収容所の前任の所長は、精神疾患の患者に対するトルストイ的ヒューマニズムを適用する治療法を試みていたらしいが、首を吊って自殺していた。高い教養を持つ文化人でもあり作家でもある判事の上官は、捕虜収容所での役割として男性原理に自分が追い込まれることにより、教養ある人間性を剥奪され、ホモセクシャルと死への衝動に呑まれている。(ルキノ・ヴィスコンティ的描写?)そして、「やらせたら、逃がせてくれる?」というミーナがアーロに言った言葉は、こんどはアーロからハレンベルグに差し出されるものとなる。<ハレンベルグ・アーロ・ミーナ>というもう一つの三角関係も、壁の穴から暴露される。

 さて、この上官ハレンベルグが暗唱する、未完の魔笛にかかわるゲーテの詩が、ミステリアスな暗示効果を持っている。(モーツァルトの)魔笛が、姫の救出劇であり、姫が宿した子は誰の子なのか・・・という交錯した謎解きの物語の展開になっている。その続編を書こうと企てたのがゲーテ。さらにベートーベンの交響曲第七番の第二楽章につながる。レコードから流れるエリック・サティのジムノペディ(乾からびた胎児という曲もありましたね)・・・。
 白衛軍兵士アーロが救出するために、偽名を使い赤衛軍ではないと嘘を言うように仕向けるが、ミーナは真実だけを述べる。白衛軍の兵士の誰とも判らぬ子が入った子宮を的に銃殺を望む。赤衛軍兵士の死を持って白衛軍の悪魔の子に処刑を。それが、もとは同じ民族である内戦の悲痛さを語るのだろう。ミーナは自らの政治信条の名誉や、倒れた同志への愛のために、不屈の闘争精神で<勝利か、しからずんば死>を望んだのか。それとも、戦争は蹂躙だけだという一女性の戦争犠牲者として死を望んだのか。どう解釈すべきだろう。
 死に行く同志マルッタの子供の面倒、また、アーロがミーナの無罪を願い「助ける」と言った<約束>。それは、戦争によって保つことが出来ない人間の弱さの中で、政治性でも、敵味方でもなく、人としての尊厳、親子の愛や男女の愛としての人間性を問いかけている。その<約束>は守られるのか?<革命信条と妊娠児の死・同志の遺児を守る約束・敵兵士アーロとの愛>の三角関係がテーマなのだろう。

 最後に、死んだ同志マルッタの遺児が、母から習った赤衛軍歌を口ずさむフィナーレと、エンドロールに映し出される記録写真が、もう一度、不屈の革命運動と<従属・独立・解放>のフィンランドの捻じれを見せつける。

 映画の出来は、決していいものとはいえない。それは、象徴的な暗示効果で作られ過ぎているためではないか、と思う。それでも、何かを訴えてくるものがある映画、とだけは言っておきましょう。『4月の涙』をご覧になった方は、どう感じたでしょうか。

 


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映画『アレクサンドリア』再び [映画]

 関東地方は、今日は雪でしたが、映画『アレクサンドリア』をようやく観てくることができました。

アレクサンドリア.jpg

 

 科学としての宇宙観の相違、宗教しての世界観の相違、都市の権力(市民と奴隷)の維持。ヒュパティア、奴隷のダオス、ローマ帝国のアレクサンドリア長官オレステス、キリスト教の指導者キュリロス、これらが入り乱れて広場(アゴラ)が・・・。アレクサンドリアの図書館の災禍と言うべきなのでしょうか。取り上げたい話もありますが、我慢しましょう。
 映画は楽しめました。

 『知はいかにして「再発明」されたか』でも、ヒュパティアについての簡単な紹介がありました。
「ヒュパティアは、古代ギリシャ文化を維持する最後の人物であり、エリート主義とはいえ、美徳や対話や精神の普遍性に傾倒したプラトンの本物の弟子だった」。この本では、西暦415年「乱暴にも手足を切り取られた」というのが、最期の紹介でした。
 そして、西暦640年、ビサンチン帝国下にあったアレキサンドリアの図書館で、ムスリム・カリフのオマールの軍勢が攻め入り、「アレクサンドリアの書物の内容がコーランと衝突するなら、異教のものなのだから燃やすべきである。もしコーランと衝突しないのであれば、必要のないものだから、やはり燃やすべきである。」という有名な話も採録されてます。


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『めぐり逢う朝』のことなど [映画]

  さて今回は、映画の話題にしましょう。
 私が取り上げるのは、ジャンル的に、音楽・本・映画・絵画と区分することが難しく、オーバーラップしていることが多いのですが、「気まぐれ雑記」たるゆえんとご理解いただければ、と思います。

 最近は、ブルー・レイの時代だからなのか、映像品質のクオリティにこだわる、HDリマスター版が発売されるようなので、注意が必要です。
 ついに、アラン・コルノー監督『めぐり逢う朝』(1991)のステレオ5.1chHDリマスター版 DVDを購入してしまいました。
めぐり逢う朝  HDニューマスター版 [DVD]

めぐり逢う朝  HDニューマスター版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • メディア: DVD

 サント=コロンブ、マラン・マレヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)の音楽に魅了されているからです。
ジョルディー・サヴァールのサントラCDも入手していましたが、HDリマスター版の発売(1/29)を機に購入しました。
特に「夢見る女」La Reveuse のメロディーが、気だるく切ない悲恋を謳いあげ、耳に残る印象を与えます。
ちょっとくたびれてますがパスカル・キニャールの本も、あわせて大切なものになってしまっています。
 『めぐり逢う朝』のサント=コロンブの娘マドレーヌを見て、思い出すのがカミーユ・クローデル。「彫刻家ロダンの協力者として、・・・自らは悲劇的生涯を送ることになった女流彫刻家カミーユ-三十年間もの年月を、人里はなれたモンドヴェルグ精神病院で送り、1943年、看る家族もなく消えていった彼女は、どんなドラマを生きたのであろうか。」(湯浅かの子『カミーユ・クローデル-極限の愛を生きて』)

カミーユ・クローデル [DVD]

カミーユ・クローデル [DVD]

  • 出版社/メーカー: IVC,Ltd.(VC)(D)
  • メディア: DVD

 ケーブル・テレビのシネフィル・イマジカで、2/27(日)にブリュノ・ニュイッテン監督、イザベル・アジャーニ主演の『カミーユ・クローデル』(1988)が放送予定です。翌2/28(月)には、こちらも同じくHDリマスター版が発売されるようです。


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『インセプション』とゾウ [映画]

 映画の中で、心理的な植え込みとして「ゾウを考えていけないと言われたとき、頭の中に浮かんだものは何か?」という、ストーリーの装置としてインセプションが解説されていました。

インセプション Blu-ray & DVDセット (初回限定生産)

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  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: Blu-ray

 この話の原型と思われるものが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』で、カリエールが紹介してます。
 アレクサンドロス大王が、ある決断を下そうとしているとき、未来を確実に言い当てる女がいるという話を耳にする。大王がその女を呼び寄せ、その術を教えてほしいと言う。女は大きな焚き火をして、そこから出てくる煙を、本を読むように読んでください、と答えた。ただし、と女は王に注意を与えた。「煙を見つめているあいだ、絶対にワニの左目のことだけは考えてはいけません。右目のことを考えてしまうのはしかたがないとはしても、左目のことは絶対に考えてはいけない、と言うんです。結局、アレクサンドロス大王は、未来を知ろうとするのを諦めました。」考えちゃだめだ、と思った瞬間からワニの目は心に焼きついてはなれなくなってしまったから、というのです。この話は、記憶術として紹介されているものです。


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「アレクサンドリア」 を観たい。 [映画]

 「アレクサンドリア」(原題「AGORA」)が、来年3月に公開予定です。

 ローマ帝国末期に地動説を唱える、古代エジプトの数学者(天文学者)のヒュパティアを演じるのはレイチェル・ワイズ。agora01-灯台.jpgagora_パピルス.jpg

 

 

 

 

 

  ファロス島の大灯台や図書館は、想像をかき立ててくれます。

E・M・フォスター『アレクサンドリア』晶文社(1990) のち、ちくま学芸文庫(2010)に収められた。
モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館-よみがえる知の宝庫』 中公新書(1991)
ルチャーノ・カンフォラ『アレクサンドリア図書館の謎』工作舎(1999)
ダニエル・ロンドー『アレクサンドリア』ブンカムラ(1999)-(これは、まだ読んでない)
町田啓『謎の古代都市アレクサンドリア』講談社現代新書(2000)
のちに『学術都市アレクサンドリア』と改題して、講談社学術文庫(2009)に収められる。
ラブレ・フラワー『知識の灯台-古代アレキサンドリア図書館の物語』柏書房(2003)
マシュー・バトルズ『図書館の興亡-古代アレクサンドリアから現代まで』草思社(2004)
ジャスティン・ポラード/ハワード・リッド『アレクサンドリアの興亡』(2009)

 これまでも、アレクサンドリアについてはいろいろ読んではきたのですが、この映画は、少し観点をことにしているようです。とくに、日本の題名は「アレクサンドリア」ですが、原題は「AGORA」。
アゴラ》といえば、私が思い起こすのは、ハンナ・アーレントの政治思想です。「自由人としての生は、他人の現前(presence)を必要とした。したがって、自由の出現自体のためにも、人々は共に集まる場所―アゴラ、市場、あるいはポリス、政治的空間などが必要であった。」
 「主人は、自由を行使するために私的家政の暗闇から抜け出し、アゴラ、すなわち公的領域に現れ、対等者のなかを動き回り、不死の名声を求め競う合うことができた。」(マーガレット・カノヴァン『ハンナ・アーレントの政治思想』未来社1981)アーレントは、古代ギリシアの政治社会からアゴラを抽出しているのだが、映画アレクサンドリアは、ローマ帝国末期のエジプト女天文学者ヒュパティアが主人公。どんなことになっているのでしょうか。

 3月に観てこれたら、またAGORAについてお話したいと思います。それまでに、ダニエル・ロンドーの『アレクサンドリア』も読まなくちゃ、です。


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「君を想って海をゆく」 を観てきました。 [映画]

 「君を想って海をゆく」は、恋人に会うため、クルディスタンから4000キロを歩き、さらにフランスからドーバー海峡を泳いでわたろうとするビラル少年の物語。偶然の出会いから、水泳のコーチをすることになった、離婚準備中の中年男シモン。そんな難民の協力をすることを警察に通報する、向かいのアパート住人の玄関マットに、「WELCOME」の文字が目に飛び込む。それが、この映画のタイトルです。
灯台守の恋 [DVD]  2004年の「燈台守の恋」を撮ったフィリップ・リオレ監督の、フランスの無情な難民政策に対する批判が込められている作品です。
 恋人に対する一途な思いが、ドーバー海峡の冷たい波間の海の阻むさまが胸をうちます。
「あの日の指輪を待つきみへ」という映画もあったが、シモンの妻マリオンに送った指輪が、小さくて、見失ってしまうかもしれない、出会いの瞬間と愛の永遠を刻み込む<時>を約束するものとして、重要な役割をなしている。妻マリオン、恋人ミナに会いに飛び足し去ったビラル少年。誰の手にも届かない指輪が手元に残った孤独のシモンは、優しい一言や笑顔で、明日を信じられる、と想うのでしょう。

【ワールド・チルドレン・シネマ】13歳の夏に僕は生まれた [DVD]  2005年のイタリア映画「13歳の夏に僕は生まれた」は、難民が生きるために零れ落ちていくように撮られていたが、フィリップ・リオレ監督は、どんな小さな無力な者にも大地を渡り海を越える-国境を越えた-想いがある、というメッセージを伝えているようです。それが、まやかしの歓待であってはならない。スローガンに止まっていてはいけない。一宿一飯から、人ができることからはじめよう、と言っているようでした。また、その愛のための勇気が、想いを遂げられることだ、と語りかけているようでした。


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